■ここは明智町が保管する「山本芳翠」の作品を紹介するページです。
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現在明智町所有の17作品中、13点を紹介しております。
画家山本芳翠は嘉永3年(1850)7月。明智村字野志の農家の長男に生まれ、寺子屋安住寺で象先和尚に学んだが、幼少から絵が好きで、15歳のとき北斎漫画を手に入れて感銘し、絵の道を志した。
京都、横浜で修行したのち、明治9年、東京の工部美術学校で学び、明治11年、28歳でパリ万博事務局雇としてフランスに渡り、パリ美術学校教授ジェロームのアトリエに入って洋画を本格的に学んだ。
明治20年に帰国したが、帰途の渡欧中の作品を多く積み込んだ巡洋艦「畝傍」が行方不明となり、彼の作品多数が海の藻屑と消えている。
帰国後、東京で合田清と画塾生巧館を設立したり、明治美術会の創立に参画したのを機に、日本の洋画壇で宮廷画家として活躍、数々の名作が天覧の栄に浴し、「日本近代洋画界の父」とも言われた。パリで黒田清輝に画家になるよう勧めたのも芳翠であり、伊藤博文と琉球(沖縄)に渡ったこともある。
明治39年(1906)11月東京芝白金の自宅で56歳で他界したが、日清・日露両戦争に従軍して従軍画家としても活躍し、伊藤博文や明治天皇の肖像画を描くなど、その生涯は波乱に満ちていた。
日本の油絵普及、洋画の大衆化に貢献した画家である。